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2021.09.28お知らせ

俳優・田中邦衛さんを偲んで

(麗澤高等学校・麗澤短期大学卒業生、麗澤大学英語劇グループOB会LEAR Society特別会員)

麗澤のキャンパスでの兄・邦衛

田中 駿平

(麗澤19期・麗澤大学名誉教授)

 僕が麗澤高校に入学した1953年、兄・邦衛は短大の2年生だった。

 その年の秋の文化祭で、短大2年生による恒例の英語劇公演がMacbethだった。尤も全編ではなく、Macbethが自らの野望に駆られて王の殺害を思い立ちながら、いざとなって怯んでいるのをLady Macbethに背中を押されて目的を達成するシーンを中心にした3〜40分の公演だった。先輩たちの演技も発音も素晴らしかったが、特にLady Macbethを演じたのが、女装の男性学生だったことが強く印象に残った。

 夜の公演だったが、その数時間前、たまたま僕は、会場の多目的ホール(現在の校舎「あすなろ」の地にあった木造平屋建て)に出向き、役者たちがリハーサルをしているステージ裏のスペースで、何やら独り小道具の準備に取り組んでいる兄の姿を見かけた。夜の公演で、Duncan王殺害の目的を達して、茫然自失の状態で再登場するMacbethの手に、血塗られた短剣が握られているのを見て、ステージの背後で独り裏方を努めていた兄の姿を重ねていた。後に、舞台で、映画で、そしてテレビで活躍する姿を見るたびに思い出す、兄の俳優人生の原点だった気がする。

 そう言えば、後に劇団俳優座に入り、同じように裏方も兼務していたであろう頃のエピソードとして聞いたのが、舞台で先輩役者が口にするウイスキーの準備をする役割を忘れていて、開演間際に煎じたばかりの紅茶を瓶に入れて、それを舞台のテーブルの上に置いておいたところ、先輩役者が、その瓶からウイスキーをグラスに入れる時、湯気が出ていたというのだった。

 役者として頑張りながら、裏方の仕事も引き受け、失敗もする、人間・田中邦衛の姿がある。ある新聞で目にした「不器用な役柄を謙虚に」という俳優・邦衛の姿に重なるように思えたのだった。

 兄の死去の報道の後、マスコミで驚くほど大きく報じられ、脚本家の倉本聰氏、監督の山田洋次氏、杉田成道氏、俳優の加山雄三さん、仲代達也さん、「北の国から」の純役の吉岡秀隆くん、蛍役の中嶋朋子さんはじめ、実に多くの人たちからの追悼の言葉が寄せられていた。それらを目にしながら、ほんとにいい役者人生を送ってくれたのだと改めて感じ入った。

 それとは別に、ずっと身近に、僕の友人、知人からも多くのお悔やみの言葉を寄せてもらったが、その中で、学生時代に直接兄と接する機会を持った人からの、麗澤のキャンパスでの邦衛の姿を伝えるものを紹介させてもらいたい。

 平川種徳(21期、麗大麗澤会〔現麗澤校友会〕元会長):麗大在学中、邦衛さんが「これ面白いよ、やってみないか」と武田泰淳の『ひかりごけ』を持ってきてくださり、俳優座の舞台が終われば学園まで度々足を運んでいただき、夜12時近くまでご指導いただいたことを懐かしく思い出します。私は2部作の1部の主演をさせていただき、一番の記憶に残っております。卒業数年後、伝統祭だったと思いますが、来園され、道ですれ違ったとき「オイ平川元気か、今どこに居るのだ」と声をかけていただいたこと。また麗澤会の行事に講演をお願いし、滅多に講演されない邦衛さんがお引き受けいただいたこと、邦衛さんから演劇の指導を受けたことと合わせて、私の自慢の一つです。(そう言えば、兄も後に熊井啓監督の映画『ひかりごけ(1992年)』に出演していました。)

 向井 明(19期):田中邦衛様の訃報を聞き、思い出したことあれこれ。◎短大の文化祭で英語劇の練習中、邦衛さんが来られて指導して頂いた。◎卒業後何時だったか、君のお宅にお邪魔すると邦衛さんが居られ、お二人で話されているのを、横で聞かせて貰ったことがあった。◎これも卒業後、京都駅の食堂でパッタリ邦衛さんにお会いした。会釈すると、未だ1、2回しか、お会いしていないのに、「おお!向井君」と言って頂いて驚いた。◎同じく卒業後、伝統祭の貴賓館での昼食時、出席して居られた邦衛さんが指名され、挨拶に立たれた(君も一緒に)。恥ずかしそうに、もじもじしながら話されたのを思い出す。それに比べ、君は堂々としていた。(初代学長・廣池千英先生が新入生の名前を覚えておられて、桜並木で出会うと、おい、〇〇くん、元気かね、と声をかけてくださって驚いたという、よく耳にしたエピソードを彷彿させます。)

 松浦鐡三(26期):子供の頃の思い出、野球のキャッチャーをされていました。メンバーがよく、邦衛さんを「クーちゃん」「クーちゃん」と呼んでいました。学園の子供たちがバックネット裏から楽しんで応援していました。瀬戸先生の葬儀に邦衛さんがお越しになったときのことだったと思います。東部住宅の田中先生のお宅の前で、私の母と私の家族が邦衛さんに会いました。ピチッとした黒のスーツで、母に対して丁重に挨拶されました。子供たちも邦衛さんはテレビで拝見していますので、母に対して「おばあちゃん顔見知りだね」とびっくりしていました。思い出の一端です。(ご尊父松浦興祐先生からは、兄も、僕も、短大で英語を教わり、また園内のご自宅にもお邪魔して、お世話になっていたのでした。まさに、学園全体が家族という雰囲気の一端を思い出します。)

 高田勝之(19期):13号舎で、貴方と同室の時、夜遅くに邦衛さんがやって来られて「今夜泊めてくれ」と。布団の予備がないので、貴方と2人分の敷布団をくっつけて邦衛さんが真ん中に、3人で寝て、「迷惑かけたな、では又な」と朝早く東京へ帰って行かれたのも懐かしい思い出です。また別の折、「俺、今度初めて映画に出るんだ。見に行ってくれな」と。確か、江原慎二郎、中原ひとみ(後に結婚)主演の『純愛物語』で、その恋路を邪魔する役柄で、新宿のミラノ座へ観に行った。その折の革ジャンの背中に虎の顔がヤケに印象深かったのが つい昨日のことのように思い出されます。また学園で 稲垣くんらの演じた「ドモ又の死」で熱心な演技指導をされていたことも今となっては懐かしいです。その後の数々のご出演や、ライフワークとなった長編のテレビドラマ『北の国から』は名演技で、我々も長く楽しませていただきました。いつか富良野へ旅した折、タクシーの運転手さんが「邦衛さんには何度も乗っていただいたが、ほんとに気さくな方で、富良野の大恩人です。みんな大ファンですよ」と言っておられたのが印象的でした。(僕自身が忘れている寮での一夜の思い出、ふと、後に、夜遅くなった加山さんが、「おれ今晩、邦さんとこに泊まる」と言って、俳優座劇場に近い兄の下宿に一緒においでになり、兄の3畳の部屋を覗いて、「おれやっぱり帰るわ」と、引き揚げられたという笑話を思い出しました。その3畳間、小さな文机が1つだけ、しかも奥には吊り戸棚が設えてある狭苦しい部屋に、僕は一度泊まり、翌朝、そこから四ツ谷の上智まで歩いて行ったことがありました。)

 改めて、兄・田中邦衛の50年近い役者人生を支えたのに、高校・短大5年間にわたる麗澤での生活、先生方、そのご家族、寮での先輩、同僚、そして後輩たちとの関わりの中で培われた基本姿勢があったのだと思うのです。「灯は小さくとも いつも暖かい(北の国から)」兄が晩年よく色紙に書いていた言葉です。

KUNIE TANAKA – Memories of a Great Actor

Gavin Bantock

(Advisor, R.U.E.D.G.)

In 1967 or 1968, a year or so before I came to work in Japan in 1969, I saw the great Japanese movie Kwaidan, a series of horrifying ghost stories. This moved me so much that I watched the film several times. One of the most impressive stories in it is Miminashi Hōichi no Hanashi (Hoichi the Earless). Although this is a horror movie, I remember laughing at a scene where two temple men-servants keeping watch bump into each other back to back and terrify each other. One of these, Yasaku, was played by Kunie Tanaka, a famous Japanese actor, though I didn’t know that at the time. I was also not to know that very soon after that the younger brother of Kunie, Shumpei Tanaka, would become one of my colleagues at Reitaku University.

 

Shumpei was the first person from Reitaku that I met after my first meeting with President Sentaro Hiroike in London in 1968. Shumpei was then spending a sabbatical year studying in England, but even then I did not know he was Kunie’s younger brother. I visited his house in London and met his wife and eldest son Toshihiro, then a baby. It was Shumpei, in fact, who took me to Heathrow Airport to see me off to Japan in early April 1969.

 

I had been interested in Japan for quite a few years before that. My father took me to Japan for three weeks in August, 1964, his main purpose being to meet former colleagues of his at Waseda University and Showa Women’s University, where he had been a professor for three years a year or so after the Great Kanto Earthquake in 1923. That 1964 visit had a very strong impression on me, so much so that when I watched the Kwaidan  movie a few years later, I felt profoundly homesick for Japan, and it still seems to me now that that homesickness was based on something much further back, if I had lived an earlier life in Japan hundreds of years before, and this was my second reincarnation.

 

Very soon after arriving in Japan, Reitaku University students began to make regular visits to my campus house in the evenings, and sometimes they used to sing Japanese songs to me. The song I liked best and still remember clearly is “Wakamono-tachi” (The Youngsters). It has a wonderful spirit-stirring melody for bravely walking forwards into the future. The students told me that the song was a from a movie of the same name (Live Your Own Way is the English title of the movie) in which one of the main actors was Shumpei Tanaka’s elder brother Kunie. Even then I didn’t connect this with the Kwaidan movie. It wasn’t until much later that I learned that the temple man-servant Yasaku was played by the same actor.

 

It was some years later, in November 1984, that I first had the opportunity to meet Kunie face to face. He came to see the campus performance of R.U.E.D.G.’s production of Shakespeare’s Richard III. He was then at the height of his acting career and a very busy man indeed. I was introduced to him by Shumpei outside the Small Theatre shortly before the play began, and Shumpei told me that Kunie was very sorry but would have to leave half way through the play as he had an appointment later that afternoon. During the intermission the group Manager and I came out of the theatre to say goodbye to Kunie and thank him for coming. To our amazement and joy, Shumpei told me that Kunie was so impressed by the play that he had decided to watch the performance to the end. All of us in the Group were deeply moved by this. It was not only that Kunie was so kind to stay on like that; we were very much encouraged that he thought our performance was good enough to impress a professional actor of such high standing as his. This was especially gratifying to me as Director of the play. We took a photo together after the performance, with Fumitaka Minagawa, who played the title role, and R.U.E.D.G. OB Tsuguyoshi Shimizu. [The photo is a little blurred: it is copied from Ariel No.6, December, 1984].


(Photo at the bottom: l to r. Kunie Tanaka, Fumitaka Minagawa, Tsuguyoshi Shimizu & GB)

Kunie Tanaka was active as actor until the very last months of his life. He was a true professional in every way. Shumpei told me that when Kunie had time to relax at home, even in his old age, he would keep his voice in good condition by reciting loudly every day after his afternoon nap.

 

Japan has lost an outstanding icon of dramatic art. Kunie was admired and much loved by people of all ages. He excelled both in serious roles and comic parts. When he was a university student, his nephew Toshihiro would make us laugh with imitations of the comical way his uncle Kunie spoke in some of his roles. I guess, if you were to ask him now, Toshihiro might treat you to one of those imitations. Kunie comes to life again when he does that!

July, 2021

 

(訳)田中邦衛氏偉大な俳優の思い出

ギャビン・バントック

(麗澤大学英語劇グループアドバイザー)

 1967年か1968年のことだが、私が大学教員として働くために1969年に来日する1年ほど前に、私は恐ろしい幽霊譚を集めた『怪談』という日本映画を見た。その中でも最も印象に残った作品の1つが「耳なし芳一の話」である。ホラー映画なのに、見張りをしている2人の寺男がお互いに知らずに背中をぶつけては相手を怖がらせている場面に笑ったのを思い出す。寺男の1人である矢作の役は、当時の私は知らなかったが、日本の有名な俳優の田中邦衛が演じていた。彼の弟である田中駿平と間もなく麗澤大学で同僚になることも、当時は知る由もなかった。

 私は1968年に廣池千太郎理事長(当時)とロンドンで初めてお目にかかったが、それを除けば、駿平は麗澤関係者としては最初に会った人物である。彼はその時ロンドンで1年間の在外研究に従事していたが、その時には、彼が邦衛の弟だとは知らなかった。私はロンドンで彼の家を訪れ、そこで夫人やまだ赤ん坊だった長男の俊弘とも会ったのである。実を言えば、1969年4月初めにヒースロー空港から日本に発つ私を見送ってくれたのは駿平だった。

 その何年も前から、私は日本に興味を持っていた。1964年8月には父が3週間の日本旅行に連れていってくれた。その時の父の主目的は、1923年の関東大震災の1年ほど後から、早稲田大学や昭和女子大学で教授を3年務めた際の元同僚たちと再会することだった。この1964年の訪日は私にとても強烈な印象をもたらした。それがあまりにも強烈だったので、数年後に『怪談』を見た時に日本に強いホームシックを覚えたほどである。私にとってそのホームシックは今でも、何かずっと昔に遡ったところに起因しており、私が何百年も前の日本に前世の生を得て暮らしていて、今は生まれ変わりの人生のように思えるのだ。

 日本に着いて間もなく、麗澤大学の学生は私の住む教員宿舎に夜に定期的に訪ねてくるようになった。その時私が一番好きで今でもはっきりと覚えているのが、「若者たち」という曲だ。学生たちは、この歌が同名の映画の主題歌なのだと教えてくれた。その作品の主演者の1人が田中駿平の兄・邦衛だった。この段階でも、私はこれを『怪談』とは結びつけられていなかった。寺男の矢作がこの同じ俳優によって演じられたと知るのはずっと後のことだったのである。

 それから数年が過ぎ、1984年11月に、私は邦衛と初めて対面する機会を得た。彼はRUEDGのキャンパス公演、シェイクスピア作『リチャード3世』を見にきてくれたのだ。その当時の彼は役者としてのキャリアの絶頂期にいて、本当に忙しい身だった。公演直前のスモール・シアター前で駿平は彼を私に紹介し、彼がその日の午後に先約があり、公演途中で退席しなければならないことを本当に申し訳なく思っていると伝えてくれた。インターミッション(幕間)にグループの部長と私は劇場の外に出て、邦衛を見送り、来てくれたお礼を伝えた。私たちにとって望外の喜びだったのは、駿平曰く、邦衛は作品に非常に強い印象を受けたので、最後まで観ることにしたというのである。グループの全員がこのことに深く心を動かされた。邦衛がそのように心優しくも劇場に留まってくれたということだけではない。我々のパフォーマンスが、彼ほどの高みにいるプロの役者に十分良い印象を与えられていると思ってもらえたことにとても励まされたのだ。それは演出家としての私を特に満足させる出来事だった。公演後に、私たちは主役を演じた皆川文隆とRUEDG卒業生の清水嗣能も交えて一緒に写真を撮った。

(下の写真:左から右に田中邦衛氏、皆川文隆氏、清水嗣能氏、ギャビン・バントック)

 田中邦衛は、その生涯の最後の数ヶ月まで役者として非常に活動的だった。彼はあらゆる意味で本当のプロだった。駿平によれば、邦衛は家でくつろいでいる時も、老境にあってさえも、午睡の後に毎日大きな声で詩の朗誦をして、声の調子を整え続けていたのだという。

 日本は演劇世界の傑出した人物を失ってしまった。邦衛はあらゆる世代の人々から称賛され、大いに愛されてきた。彼はシリアスな役柄でもコミカルな役でも優れていた。甥の俊弘は、学生時代に伯父・邦衛の色々な作品での話し方をコミカルにモノマネして私たちを笑わせてくれた。おそらく、今でも頼んだら、俊弘はそうしたモノマネをしてくれるだろう。その時、邦衛は再び蘇るのである。

2021年7月

大学祭における田中邦衛さんの思い出

岩佐 信道

(麗澤26期〔大学第6期〕・麗澤大学名誉教授)

 昭和38年、私は麗澤大学の1年で、その年の秋の大学祭では、シェークスピアのA Midsummer Night’s Dreamの一部が上演されました。私は、そこでオベロンという役を演じたのです。当時、本場イギリスで吹き込まれた英語のテープを繰り替えし,繰り替えし聴きました。プロの声優によるテープを聞き、それを自分のものとすることができたことは、その後の私の英語の発音に非常に大きな影響を与えたように思います。

 さて、このA Midsummer Night’s Dreamの上演で最も大きな思い出は,麗澤の先輩である田中邦衛さんに直接指導を受けたことです。邦衛さんがどうしてその日学園にお越しになったのかは知りません。もしかすると、学生たちの練習を見てほしいと、田中駿平先生が頼まれていたのかもしれません。ともあれ、この上演の最初の場面は、妖精の王、オベロンが妻、ティタニアに対して「眠りからさめると最初に見た者に恋をする」という設定のもと “I wonder if Titania be awake. Then what came in her eye.” という場面でした。

 私は,それまでこのせりふをただ型通りに繰り替えしていたのですが、邦衛さんは、こういう場合にはこういうふうにするのだと、はっきりとした動作を示してくださったのです。私は、この時の印象が非常に強く、大きな感動を受けました。そして、邦衛さんが示されたいわば型のようなものは、邦衛さんが、それまでの演劇の経験の中で習得された一般的なものなのか、それとも『真夏の夜の夢』のその場面でのせりふに対応するものなのか、ということを長く疑問に思っていました。

 もちろん邦衛さんが日本で経験してきているのは、日本語の劇であると思われるのですが、もしかするとA Midsummer Night’s Dream をロンドンで見たことがあるのかもしれない、と思ったことさえありました。ただ、50年近く前にご指導いただいたあの発想そのものはどこからきているのか、ご本人に直接確かめることができなくなったことは残念です。

 邦衛先輩のご冥福を心よりお祈りします。

伯父・田中邦衛さんを偲んで

田中 俊弘

(麗澤49期・リアソサエティ幹事・麗澤大学外国語学部教授)

 2021年3月24日、昭和の名優の1人、田中邦衛さんが亡くなりました。享年88歳。黒澤明監督作品『椿三十郎』を含む多くの映画やドラマに出演してきましたが、その中でも、映画「若大将シリーズ」の青大将役、そして何よりも倉本聰氏脚本のTVドラマ『北の国から』での黒板五郎役が多くの人々の記憶に焼き付いているのではないかと思います。

 伯父は麗澤高等学校・麗澤短期大学の卒業生であり、麗澤大学英語劇グループOB会リアソサエティ(LEAR Society)の特別会員でもありました。弟である父(田中駿平麗澤大学名誉教授)のところに時々来ていましたし、若い頃はキャンパス内の職員住宅で勉強会をしているところに顔を出す機会もあったようです(堀内一史副学長が、学生時代に拙宅で邦衛さんに会ったとおっしゃっていました)。当時は英語劇グループの後輩たちの指導もしていたと伺っています。麗澤のキャンパスに最後に訪れてくれたのは2009年10月、ちょうどギャビン・バントック先生の来日40周年OB公演とパーティを開催した時のホームカミングデイで、トークショーの壇上に上がってくれたのでした。

 個人的には、1996年4月に大学のキャンパス・プラザホテルで挙式した際のパーティで、来賓スピーチをしていただいたのが懐かしい思い出です。アメリカのホテルのレストランでのウェイターとの楽しいやり取りの小咄が、心に強く残っています。

 訃報に接して、世代を超えて麗澤の多くの卒業生や関係者からお悔やみのメッセージが、私のところにも随分と届きました。その飾らない率直な人柄と演技で多くの人々を魅了した麗澤の大先輩の冥福を、他の卒業生や関係者と共にお祈りしています。

(※この特集は、麗澤大学英語劇グループOB会誌ARIELのために企画・編集されましたが、同誌の発行が遅れているため、先にこちらから共有させていただきます。ご寄稿いただいた皆さまに厚くお礼申し上げます。)

2009年10月ホームカミングデイにて
2009年10月、廣池幹堂理事長たちとキャンパス内で
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